--- 不適切な表現や乱暴な言葉にご注意ください --- ■ すべてはここから始まった ■ カルコーク誕生 1978年 福岡県久留米市の奥地、高良山の裏ふもとの高良内町公民館にて手作りの初ライブ時の写真である。 →メンバー参照 この時、豊福光好・FUMIYAが高校1年、他はすべて高校2年、小川・堤以外すべて良山中学出身、 加賀田・小出以外すべて南筑高校という仲間内メンバーだった。 俺(角)と村田と加賀田は、中学時代から同じバンド「BeatTickers」をやっていたが、 高校受験もあり、前バンドを自然消滅的に解散。 俺と村田・平田は、南筑軽音楽部に籍を置きつつ無事2年になり、豊福とFUMIYAが入学してきた、 「先輩達のバンド見てて、俺達も中学の時にポパイ(高杢も在籍)っての作って、やってました。」ってんで、 軽音楽部での軽いセッション活動から、「そろそろ本格的にやるかっ」てなことで、 じゃやるなら「目立つぞっ!」てことで、ライブを念頭に練習が始まった・・・ かといって、ライブハウスがあるわけじゃなし、いきなりホールを借りる金も動員力もない・・・ できる所からステップアップするしかない! PCなど普及してないし、コンビニで手軽にコピーどころか、コンビニがない。 チラシやチケットも手作りになる、当然手売り、 この初ライブの来場者は、確か?16人だったと思う。 会場への交通の便が悪い事もあるが、「恐くて行けなかった」ということもあったらしい(後で聞いた話だが)。 現にチケット販売枚数にともなう来場がなかった(チケット売りのタカリととらえた輩もいたのか?) ぜんぜん恐くないよ、見てのとうりみんな気のいい奴ばかり。見えない?(笑) バンドネームは、あのカルピスとコーラを混ぜたドリンクが由来、 50’sっぽい飲み物、青春の代名詞ともいうべき甘酸っぱい食感、コークはあの薬物の愛称でリスキーなイメージ、 カルチャーとの引っ掛け、語感・・・などなどから命名した。 ■ 「プライドだけはプロですから」 by JIN■
翌年(1979)出会うことになるザ・ロッカーズの陣内さんがアマチュア時代の名言。 そう、プロを目指す人間は、その前からプロ意識を持って取り組んでいる、だからこそ甘えや言い訳もなくなり、 取り組み方も違ってくる。その結果として極まっていくものだろう。 言えている!たとえ数百円のチケットでもステージに立つ者のショウマンシップが大切だ! 俺達も、やる以上はカッコいいバンドになりたかった、なると決めた。 街を歩いたら誰もが振り向くほどの存在になろうと、全メンバーをはやしたて語り合った、皆が同じ思いとなる・・・ 果たして、思惑通りとなる。 (ロッカーズは、1979年L-MOTION九州大会でグランプリを受賞し、東京へ殴りこみに行く。 そのキッカケで、穴があく事になった九州大学のROCK祭へ、カルコークが代打出場をして、 博多のROCKに触れる事になる。) ■ とにかく踊る ■ 「この街のメインストリートわずか数百メートル・・・」浜省のマネーの歌詞のような・・・ 駅前から一本道の明治通り、その道の南側の通りになる商店街、「一番街」「あけぼの通り」「サンロード」、 その先は文化街という飲み屋街。 遊びも買い物もほとんどがこの近辺、歩いてれば誰かに出くわす、 「なんしょうと?」と問えば、「べつにー」「ぶらぶら」、まるで合言葉のような挨拶。 50’s、憧れのアメリカの古き良き時代。映画「グリース」(1978年作品)や日本のバンドではCAROL・COOLS・チェリーボーイズ・ KENTO'S(六本木発祥のオールディーズBAR)のレコード・・・などなどの影響もあるのか、R&R・OLDIESが流行し、 ゆうせんからもよく流れてきた、 そんな商店街、地下道、ゲーセン、友達の家、公園、学校の廊下や踊り場、ところ構わず踊ってた・・・ 修学旅行時の新幹線のデッキでさえ踊ってた、当然TWISTだが、グリースの前年ジョントラボルタはサタデーナイトフィーバー という映画に出ており、TVのソウルトレインなどの影響もありDISCOブームでもあった、よってDISCO DANCEにも触れた、 当時のDISCO(クラブとは言わない)では、いわゆるDISCOミュージック(ソウルミュージックか)とOLDIESやR&Rを 時間替えでかけたりしていた(ノンポリかな?)、ま、田舎だからしょーがない、けど、わけ隔てなく盛り上がっていた。 「カルコーク」とは自らがダンスチームであったともいえる。 ■ 大迷惑!? ■ 練習に関しては、当時の仲間の御家族はじめ近隣住民の方々、「ご迷惑かけてすみません」 m(_ _)m のちにチェッカーズストリートと呼ばれるようになった通りにメンバーが住むマンションがあった、知ってる人は解る、 そうあのタコ焼き屋(今もあるかな)の屋上で練習したりしたわけだ、最初は1976年かなBeatTickersをやっていた頃、 スタジオ借りる金が無い、ならば、ビートルズも屋上で・・・ 屋上から飛び降りなんてほとんど無い時代だからそのビルの屋上には自由に上がれた、 確か5階建てで、2階のメンバー宅から電源延長、 機材はバスや徒歩で運び、当然エレベーター無しの屋上へ手運び・・・ ・・・(アンプもね:中型で15kgとか20kgあるから結構こたえる)・・・ ジャックを差し込む・・・ON! グァッグァッグァー (カエルの声じゃないよ、Smoke on the Waterのイントロ、 俺らが中2からやってたBeatTickersというバンドは、Deep Purpleのカバーとかもやってたから) 「野外は気持ちよかー」 ・・・・ のは俺らだけ!?? 数キロ離れた病院より苦情、「どこから聞こえて来るんだ!!」との騒ぎ、・・・ - - -< 文中割愛 >- - - ・・・その反面、理解的で大らかな大人の方々が居たのも事実、「何かに一所懸命ならよかたい!」って親御さんも居てな、 おにぎりとかカレーとか作って差し入れしてくれたりな、 そういう方々に支えられて今があるわけだ。 色々お世話になりありがとうございました。ご恩は全メンバーとも忘れておりません。 ■ ダンパ ■ ダンスパーティーには良く行った、中坊ん時から行ってるしな・・・妖艶なお姉さんたちもいたし・・・ ま、多少大人びてたし、色々と大人のフリする年頃であった。 踊ってるとお姉さまからの誘惑も時折あったりして・・・ しかし、恐ーいお兄さん達もいたし。そりゃ中坊ん時の年上は大人に見えるよな、混ざってよくやってたよ。 そして、踊りまくった、まず心が躍るんだな。(俺らの仲間は今でも何かあると踊るよ。) そういう、よその企画のダンパにも行ってたのがキッカケで、俺らもヤルという目標になったわけだ。 久留米市民会館小ホール、チェッカーズファンなら聞いたことあるはずだ。 フミヤも良く話してるし、思い出の場所とかでTVでやってたし(村田も出てたな、先輩として)、 で、キャパ的にも小じんまり、いや中じんまりか、やるなら都合が良くて、 シーナ&ロケッツ・モッズ・ロッカーズ・ARB・憂歌団とかもいろいろやってる場所だ。 この小ホール、公共だし規則も細かいが他に手ごろが無いわけだ、ま、フラットだし 床がカーペットじゃないからダンパにはもってこいなんだな、イス入れて約300、 イスなしだと500ぐらいが限界かな? 満タンにしたかったね、すると決めたね。 ま、それから自分らで企画しだしたり、SET-UPというプロモーターに依頼しだしたりするのに カルコークとしてたいした時間はかからなかったな。 俺らにはキャラクターが揃っていた、それなりのテクも有した、ステージ構成のセンスもあった、 企画力も経済観念も身に付け、バンド運営帳簿もあり赤字になった事はない、 何より自らが楽しんだ、俺らには3人のボーカルが居たが、間奏になると誰もステージに居やしない、なんてことも・・・ 「オーイッ!」ってかんじ・・・客と一緒に踊ってるわけだ、んな時は戻ってくるまで、ギターソロでつなぐ、 それでも戻らなけりゃ代わりに歌う・・・ 喧嘩が起これば、うちのスタッフが止めたり・仲介したり・時には制圧もする、薬物でボケてる奴はつまみ出す、 当時の他のバンドじゃそんな芸当までは、なかなか出来ないわけだ・・・ 果たして、俺達は確固たるものを築き、のちにR&R・ダンパブームの立役者と言われることとなったようだ。 しっかし、ご来場の皆々様は、そりゃーやんちゃな方々が集まったので、ダンパが終わると車とバイクの騒音やら 暴走やらで大変で、当時の市民会館は久留米警察署の裏なんだな、なのに会館の階段をノーヘルで駆け上がったり バイクも車もネズミ花火のようにクルクルと・・・ - - -< 文中割愛 >- - - 俺らは、会場内外の吸殻そうじとかキチンとして片付けるわけだ。ほんとに。 ・・・でないと次が貸してくれない。 打ち上げは、キチンと後仕事が終わってからだ。(カンパイはコーラだよ、ホント) ↑ 1979.3月のダンパチケット(縮小している) ¥400とは今では考えられない ■ SET-UP ■ 中川原 氏 わかりやすく言うとPA屋さんなんだが、(PA:パブリックアドレス。公衆伝達、音響機材設備等をさす) 久留米(筑後地区)のバンドマンで知らない人は居ない、世話になってない人も居ない。 代表:中川原氏は元バンドマンで楽器店勤務のちに独立して、プロモーターの道へ。 自ら企画もして、プロを呼んだり、アマチュアのライブなどに協力。 この人なくして、当時のバンド界の進歩は語れない。 中川原氏は現在は家業を継ぎ、当時のスタッフだった丸山氏が「ターザン」という屋号でPA業を継続。 俺らが最初にライブデビューしたのもSET-UPがらみ、デビュー前の石橋稜さん(後のARB)がやってた アップルツリーというバンドやスケアクロウというバンドと一緒だった (俺らは中坊で「BeatTickers」のときだった) ■ 絵日記 ■ 忘れちゃいけない場所に絵日記という喫茶店がある。先輩の家が経営してたんだが、 その先輩は、自ら「オレがマネージャー代わりだ、色々応援しちゃる」ってことで、溜まり場でもあった。 ま、ブイブイやってた先輩なので、色々とモメゴトのときは助かった、で、タカナピラフが旨くてなー、 今は喫茶店やってないから食えない、けど、人気メニューだったし食った事ある人も大勢いる筈、 今もう一度食いたいね。 この絵日記は、当時俺らがクールスの前座を佐賀市民会館でやった事をキッカケに ドラムのヒデミツさんの店「原宿チョッパー」の姉妹店として、グッズを販売するようになって、更にローラーや バイカーのお客さんも増えたかな。 絵日記ダンパも定例してやってたしな。 当時を知る人、懐かしいでしょ。 ※追記:2017年7月現在、その先輩は駅近くでライブパブを経営している。 ■ 日帰りツアー? ■ まー色々思い起こすと、メンバーすら多分忘れてしまってる事もあるようで、 大分県日田市に日田淡水魚センターってのがあって、ま、川魚水族館みたいなとこかな、 そこで夏休みのイベントでロックフェスなわけだ、ま、今は全国的に有名な温泉の湯布院への通り道に 位置するが、結構マイナーで(地元の人に失礼:後に俺らの大好きなヤキソバ「想夫恋」をはじめとする日田焼きそばでメジャーに)、 ま、その日田淡水魚センターでヤッテくれってことで、 ところがこのイベント、なめちゃいかん、俺らは二回行ったんだが、一回目がシーナ&ロケッツと一緒、 二回目がモッズと一緒、(ロケッツはデビュー直後、モッズはデビュー前だと思う)、 で、先輩のバンドがロッカーズと一緒で、その時は見に行ったんだが、まあ、日替わりで2バンドが2ステージずつ やるわけだが、すごい顔ぶれよ、のちにモダンドールズも行ったかな、 デビュー前のチェッカーズも行ってると思うが・・・ で、そのセンターに入場してれば自由に観れるわけ、今じゃ考えられないな。 ま、飯は出る、空き時間にプール入り放題、バイトの娘とおしゃべりし・・・てないけど、 まぁ、ステージやっててもお客さんがあまりいないわけ、仕方ないか、地元の若者もなかなか行かない所だったし、 子供づれでロックもなー(1979年の話しだし)、もったいないよなー。 ま、楽しかったが、その淡水魚センターに行く時に、JRの久大線(久留米-大分)ってのに乗るんだが、 マイナー路線で、当時は1時間に2本ぐらいかな、 で、御井駅(地元でなくてもチェッカーズストリート見学した人は知ってるね)という駅があり、 駅員1人で、ほとんど無人駅なわけ(改札に箱があって切符を入れるだけ)、 ところが、たまに人が降りるときに駅員さんがいる時があってな、 帰って来る時にたまたま居合わせたわけ、 電車がホームに入ると駅員さんが居るのが見えるわけ ・・・しかも改札でなくホームに・・・ ・・・ 今日は駅員さん居るんだ ・・・ ・・・ ドアが開く、プシュー、人が降りる、っても俺らのほか3人ぐらい・・・その3人が駅員さんに切符を渡してる、 駅員さんが「お客さん切符をお願いします」って俺らに言ったか言わぬか・・・走る!走る!走る! ある者は柵を越えて、ある者は線路を東へ、ある者は線路を西へ、ある者は改札出口へ・・・ ギターケース・スネアドラム・衣装・各自が抱えて全力疾走・・・・・えっ、切符はちゃんと持ってたよ・・・ しかし - - -< 文中割愛 >- - - ・・・そしていつものごとく円陣になって、一仕事終えたあとの乾杯の儀式だ。 俺達は、この時が待ち遠しかった、しかも、予想だにしなかった全力疾走のあとだ、もう我慢の限界だ、 俺達は、そいつを一気に飲み干した、まるで競争だ、ゴクッゴクッゴクッ ・・・ くーぅぅぅっ!たまらん! 「やっぱ、ジョージアはうまかーっ!」 「お疲れーっ!」っと、 夕暮れの夏の空に7つの缶が舞い上がった・・・ (その後、缶を拾い、きちんとゴミ箱へ入れた事は言うまでもない) ・・・そして、1年半後、FU○○YAはJRに一旦就職することとなる・・・ ■ 解散 ■ 1979年の秋の学園祭活動で事実上の解散となったカルコーク。 俺ら高3組は進学・就職の現実が目の前だ、FUMIYA・光好は3年へ進級するだけ、 ・・・進路・・・これから先は、それぞれ一個人の様々な事情で選択される、 当然ながら、就職・高校・大学・専門校・・・様々な進路、足もバイクから車へ変わる ・・・当然ながら色んな生活のズレも生じつつ、互いが新環境へ向け旅立つ。 ■ その後 ■ 1980年春、夏のL-MOTION ROCK(コンテスト) の地区コンテスト開催が告知される頃、 俺はオリジナル曲のロックバンドで出場するために申し込みを終えた、が、 その時点で曲は出来ていないしメンバーも決定していなかった、 ・・・その頃、FUMIYA達も新バンド結成に動いていた・・・ 俺はコンテスト直前に、トオルが居たシェイクというバンドのドラマーだったシンジと、 マサハルが居たフィフティーズというバンドのギターだった森山誠二をベース暫定メンバーとして、 俺と小川の4人で、From'80 Shocking Revolution を作った。 その傍ら、FUMIYA達は、シェイクのトオル、フィフティーズのマサハル、キューティスのクロベエ(角とはハトコ)、 ポパイで一緒だったタカモク、弟のナオユキ、ユウジは元シークレッツだったかな・・・で、ご存知のチェッカーズ誕生! 誕生にあたっては結成当時に一部メンバーチェンジもあっている、実活動は80年後半からだったかな。 元カルコークの村田も加入予定だったが、家事都合により、初期のアドバイザー的かかわりとなる。 1980 L-MOTIONにてFrom'80・・・ は、久留米地区グランプリ受賞後に九州大会へ進出、審査員特別賞を受賞した。 それから、博多のライブハウスでの活動が始まるに際して、ドラマーが、マサハルが居た元フィフティーズの 二宮雅之に代わり勢力的に動いた。 翌年、1981年、また L-MOTIONの季節が来た。 俺らは、シニア部門(この年からシニアとジュニアの部門別になった)の地区グランプリ、 チェッカーズは、ジュニア部門の地区グランプリとして、九州大会(博多)へ駒をすすめる。 俺らは、シニア部門・人気No.1賞。チェッカーズは、ジュニア部門・グランプリを受賞。 その後のチェッカーズは皆さんご存知のとおり。 俺らは、更に勢力的に活動、いよいよ東京に殴り込むぞ! という矢先に俺の家事都合にて、From'80・・・ 突然の活動休止・・・解散(1982)。 ・・・ そして、俺は、陣内孝則ひきいるロッカーズの再結成(1990年末)で、バンド復帰するまで約8年のブランクを有した。 ■ 策 ■ 旧友達もそれぞれの人生を歩みつつあり、不運にも事故や病気で早すぎる寿命を遂げる者も居る。 俺らの旧友はまだまだ気が若くエネルギーもあるが、当時踊りに来ていた奴らは元気だろうか・・・ どんなオヤジやオフクロになっているだろうか・・・ 変なノスタルジーでは無く、 「ダンパやろうか」・・・ 旧友と飲みながらそんな事を口走った、 近い将来、実現するだろう・・・ (角 英明 : 上記は2002.11/10現在に作成) この田舎町のバンドブームや様々な青春風景
自他含めて書けないエピソードが多すぎる! 本も映画も俺にやらせりゃ面白いけどなぁ〜 ■ 突然 再結成! ■ 2004年1月下旬、ある日突然、CUBAというグループから連絡があり、 まず、CUBAとはチェッカーズファンからなるCUTE BEAT A"LIVE"というイベントの スタッフであり、カルコークのHPへアクセスしてからメールが来た次第です。 要旨は、「チェッカーズファンにとっての聖地である久留米でイベント(ダンパ)を行う、 ついては、当時の雰囲気などお聞かせ願いたく・・・」というインタビュー的なノリで 会う事になった・・・ で、かくかくしかじか、キラキラした瞳で、このイベントに対する思い入れを語るCUBAのリーダー、 で、生バンドを入れたいので、カルコークで演奏してくれ!と! んー・・・・!!? カルコークっつっても解散して25年、仮にヤルとしてもオリジナルメンバーは俺含めて3人しか できそうにない。時間もない(俺は東京に居るし)・・・ 「とりあえず、返事は待って・・・」となる。 旧メンバーや助っ人メンバーへの打診、スタジオに入れるのか?何曲できそうか・・・・? 最終的にメンバーが決まり、楽曲が決まり何とか形になったのはイベントの10日ほど前だった (^ ^ ; 俺以外、旧メンバーや助っ人メンバーはほとんど楽器も触ってない(村田は時折イベントで歌ってたが)、 とにかく、ロカビリーどころかリハビリーな日々で慌しく3/27の本番を迎えた。 CUBA主催イベントにお呼ばれしたわけだから、我々サイドでの告知や集客は行っていないが、 あとから聞きつけた方々からは「教えてくれれば・・・」とのクレームが・・・ ま、また何かの機会があればということで。 さて、イベントはと言えば、東京・横浜・名古屋・広島・徳島・熊本・長崎・鹿児島・・・・・ まー、遠くからお越しいただいて、超盛り上がりでした。また、やりたいねー。 打ち上げも朝方まで、飲んで飲んで・・・ 写真は一部 UPしてます(2004春)。 |